注染の歴史

誕生から現在まで
デザイン・技術の変化

「注染」は明治時代初期に生まれ、150年以上の歴史がある日本独自の染色技法です。布面に染料を注いで染色することから、「注染」という名前が付きました。布の裏表がないように染色できるのが特徴で、手ぬぐい・浴衣・ダボシャツなどお祭りや夏季に使う製品づくりによく用いられています。

近年は注染で染めた布を洋服に仕立てたり、ブックカバーを作ったり、生活様式の変化に合わせてさまざまな新しい製品が登場しています。ファッションスタイルの選択肢の増加に伴い、黄緑色や水色といった優しい色合いで描いた花柄、フルーツを取り入れたポップな柄、鮮やかな色を大胆に取り入れたものなど、注染の意匠も新しいものが続々と生み出されています。

注染の魅力は、職人が手作業で作っているからこそ表現できる自然な風合いや、美しいグラデーション。まずは注染で作った雑貨を1つ持ち、日本文化の「粋」を感じてみてはいかがでしょうか。

150年以上の歴史ある染色技法

注染の歴史 〜誕生から現在までの流れ、デザイン・技術の変化まで〜

注染は、「長板中形」という染色技法の難点を克服するような形で明治時代に生み出されました。その後順調に生産量を伸ばし、戦後間もない頃に最盛期を向かえます。

長板中形とは、「長板」と呼ばれる長さ3間半・幅1尺5寸のモミ板を使い、木綿の浴衣を染める染色技法のこと。裏表の両面に、同じ柄があしらわれるのが特徴です。木綿の普及に伴い、江戸時代中期に始まったと考えられています。

木綿のさっぱりとした肌触りと藍色のみを用いた染色が「粋」であること、銭湯でひとっぷろ浴びる習慣が根付いていたことから、長板中形は江戸の民に好まれていました。

長板中形を作るときは、木綿の生地を長板にぴったりと固定したり、模様を付けるための型紙を置いたりした後、染色・乾燥といった手順を踏みます。裏表が同じ柄になるように型紙を置いて染色するには特に高い技術が求められ、仕上がりはとても美しい一方、量産が難しいのが難点でした。

明治時代になると、長板中形の難点を克服するような形で「注染」が使われるようになりました。注染がいつ、どのような経緯で開発されたかは明らかになっていませんが、明治20年頃には広く普及したことが伺えるため、明治時代前半に誕生したのではと考えられています。

長板中形の量産が難しかった理由のひとつは、生地の裏表に一枚ずつ型紙を置いていたから。そこで注染では一度に複数枚の布を両面とも染色するため、防染糊の付け方を工夫しました。

注染では長板に生地を広げ、型枠を載せて糊付けした後、さらにその上から新しい生地を広げるのを繰り返し、生地と糊を何度も重ねるようにしたのです。型枠の形に合わせて糊が付いている生地の上に新しい生地を置けば、新しい生地の裏面にも型枠どおりの糊が付くため、糊付けの手間を大幅に減らすことができました。

明治時代に誕生してから、技術改良や化学染料の普及に伴い、注染は全国的に広まりました。大正時代から昭和初期にかけては電動コンプレッサーによる染料吸引方法が開発され、さらなる量産が可能になります。

大量生産が可能となった結果、安価な商品の製造・販売もできるようになり、注染の市場はますます拡大しました。注染の浴衣の生産量は、戦後間もない昭和20年代後半から昭和30年代後半にかけて最盛期を迎えます。

しかし、その後は化学繊維やファストファッションなどが世の中に浸透し、注染の需要は減少の一途をたどることに。埼玉県立歴史と民俗の博物館の『埼玉県民俗工芸調査報告書 埼玉の注染』によると、昭和57年には東京54軒・浜松52軒・大阪81軒あった組合の工場件数が、たった6年後の昭和63には東京39軒・浜松26軒・大阪74軒まで減少しました。

人々の生活に寄り添ってきた染め物の歴史

注染が生まれたばかりの頃は浴衣や手ぬぐいが中心で、夏用や銭湯に行った後の衣類、作業中のタオル代わり、頭巾のような被り物などとして使われていました。

浴衣の起源は、入浴時に着ていた湯帷子(ゆかたびら)と考えられています。白無地のシンプルな衣服で、江戸時代に裸で入浴する習慣が根付くまで使われていました。お風呂に裸で入るようになると、湯帷子は夏の衣服である浴衣へと変化。浴衣は外出着として広まり、白無地だった生地に模様をあしらうようになりました。

当初の模様は、市松模様ややたら縞など今でいう伝統文様が中心。その後、草花・動物・幾何学模様、伝統と洋風を掛け合わせたもの、若者向けの淡い色合いのものなどが生まれました。そして現在も、続々と新しい意匠が職人たちの手によって生み出されています。

注染の歴史 〜誕生から現在までの流れ、デザイン・技術の変化まで〜

手ぬぐいは、単に濡れた手を拭くためのものではなく、もともとは被り物として使われていました。当初は浴衣と同様に無地のものや単色染め、藍染めが中心でしたが、近世後期になり木綿が広く浸透すると、模様をあしらった手ぬぐいも販売されるようになりました。

手ぬぐいの意匠は伝統的なものから始まり、江戸庶民の家具や食器・見世物・お祭り・故事逸話・古典文学などさまざまなデザインが登場。また江戸時代後半は歌舞伎役者が庶民のファッションに影響を与えるようになり、彼らが使う手ぬぐいは人々のあこがれの的でもありました。

第二次世界大戦中は世の中が戦時色一色に染まり、手ぬぐいづくりに使う木綿も統制されたため、意匠も簡素なものが中心になります。戦後は統制が解除され、戦前に使われていた意匠が復活。さらに時代の変化に合わせて、新しいデザインも登場しています。

現在、注染はタオル代わりや夏用の衣類として使われるのに加え、壁掛け・ランチョンマットのようなインテリア、ハンカチ・弁当袋・布巾といった生活雑貨としても好まれています。生地を洋服やバッグに仕立てた商品も登場しており、生活スタイルの変化に合わせながら、注染の伝統の技を伝えています。

また、注染の技術を未来に残すために保存活動をするほか、現在のライフスタイルに合わせた新しい製品を各工場が続々と開発中。テレビや雑誌などのメディアに取り上げられる工場・グッズもあり、近年再び注染への注目が集まりつつあります。

注染の意匠(デザイン)も、時代ごとに変化しています。昔からある伝統的な模様に加え、最近はかわいらしいキャラクターものも登場しており、注染が表現できるものはどんどん増加中です。

注染の主要生産地 東京

注染を作っている工場は、日本各地にたくさんあります。その中でも特に生産量が多い地域が、東京、浜松、大阪といった地域です。

中でも東京本染は、東京都江戸川区・足立区・葛飾区を中心に生産されている注染です。江戸時代ごろの東京(江戸)には手ぬぐいを服飾品として使うのに加え、贈答品として贈る文化もあり、染物が身近な土地柄でした。手ぬぐいを普段使いする機会が多かったため、明治時代に注染の技術が開発されたのに伴い、大量生産ができて購入しやすい価格帯の染物として注染の生産を開始し、現在に至ります。

埼玉県立歴史と民俗の博物館『埼玉県民俗工芸調査報告書 埼玉の注染』によると、昭和30年代に最盛期を迎え、昭和32年は5,233,646反(1反=幅約37×長さ約12m50cm)も生産。昭和58年12月27日には東京都指定の伝統工芸品に、「東京本染ゆかた・てぬぐい」の名前で登録されました。

注染の表現技術

注染は、生地の両面を同じ色・柄に染められるのが大きな特徴のひとつで、多様な色彩と自然なグラデーションを用いた様々な絵柄の染色が可能です。

注染ができるまで

注染は、染色前の生地を綺麗に整える干場、糊を乗せ型付を行う板場、染色を行う紺屋、水洗いで糊と余分な染料を落とす水元といった工程を経て制作されています。

PAGE TOP